編修前記

"まとまる前の文章" を "まとめる前" の文章

相手無き議論は無駄か

この場所に対する説明とその補足。

ここで用いられる語彙は、はっきりとその意味を表すために用いられるのではなく、ニュアンスの塊である。

議論とは往々にして相手を伴う形で行われる事が多い。確立された議論の形式として、グループディスカッションやディベートブレインストーミングなどはその好例であり、ここに挙げられることのなかった形式も大概は"議論の相手"を伴うだろう。

その大きな理由は明白であり、一人で黙々と考えるよりは大人数で考えたほうが生産的でかつ良質なアイデアがまとまるからであろう。

しかし、この考え方はあまりにも資本主義的で、無機的であるように思う。共産主義が有機的かという話は別にして、人間的な温かさのある行いというよりは画一的なメソッドのように私は感じてしまうのだ。

だからどうだと述べるつもりはない。無論、"相手を伴う議論"を否定することが目的ではない。

天邪鬼な自分はこの常識に切り込みたい。 相手を伴う議論"だけ"が有意義か。 一人でのみ行う議論は無駄か。

"相手"には生身の人間だけでなく、人間が吐き出した言葉、書物をも含むだろう。

"どうせ何かを考えるなら多角的な意見があったほうが良い" と多くの人間は言うのかもしれない。 実際そうなのだろうし、そうして生まれた意見が世界に広く受け入れられる。

しかし、自分は広く意見を浸透させたいとは思っていないのだろう。 自分が考えたという事実が欲しいだけかもしれない。 何かを考えているという行為に溺れたいだけかもしれない。

それを達成する場所をここにしようと決める。

長々と言い訳を最初に書いておくことにする。