編修前記

"まとまる前の文章" を "まとめる前" の文章

今年も桜が綺麗だ

"好きなものでさえ、意識的に遠ざければ好きではなくなってくる"というのはある面で真実だろう。
単純接触効果の逆といったところだろうか。

最近、日の当たらない生活をしている。
日中に外出するのは稀だ。家にいても闇のような遮光カーテンを引いて、定位置に収まる。
定位置と言っても1箇所ではない。こたつに潜るか、ベッドでまどろむか、そうでなければロフトベッドの下に薄く広がった空間に縮こまる。
こたつの人工的な温もりに嫌気が差せば、ベッドへと足は向かう。まどろみに飽き足りれば、薄い空間へと落ち着き、なるべく詩的に文章を書こうとするか、2~3本の動画を見る。手の届く範囲にはギターが置いてある。面白い動画が無さそうなら、それを手に取り、静かにIVM7-V-VIm7の単調な流れを繰り返す。満足ならギターを戻し、本棚からストーリーを思い出せなさそうな文庫を取り出し、再びパネルヒーターの無機質な温かみに脚を委ねる。

いつの間にか今日も日が落ちる。普段から静かなこの地区から誰一人車一台もいなくなった隙をみてドアを開ける。この季節は職場の庭に桜が咲く。毎年見ているはずのその枝は、何度見てもよく花をつけている。
まだ5分咲程度だろうか、と月明かりを透かしつつ、庭をショートカットして進む。
少し大通りへ出ればいつだってそこは明るい。その眩しさに当てられて、そそくさと帰路を進む。

自分は桜が嫌いなのかもしれない。
昼も夜も人を呼び寄せる。花が舞う季節も美化され語られる。葉をつけても、惜しまれることはあれど、嫌われることはない。
そのくせ、桜は別れの季節を祝福しない。別れ際の桜吹雪なんて、小説世界の産物だ。

自分は別れが嫌いなのかもしれない。
"それじゃあ、またいつか、どこかで。"
その言葉を心から言えない。
その言葉は本来、今生の別れ際にこそ交わされるべきだと思っているからなのかもしれない。

この現代において、今生の別れは滅多に存在し得ない。
通信手段が発達しすぎている。便利と味気なさはきっと同義だ。
"名前を知らないあの人"を、写真から検索できるなんて、おかしい。
"顔を知らないあの人"の笑顔を、一方的に知れるなんて、おかしい。
そのくせ調べ得る情報はその人の上辺しか語れないなんて、おかしすぎる。
でも自分はそんな社会を嫌いになれない。便利さから逃れることができない。

この社会は、人と人を別れさせてくれない。
出会った瞬間に、人と人は別れるには近すぎるほどに距離を詰めてしまう。
名前か顔を知ってしまった瞬間に、綺麗に別れることができなくなってしまう。
そんな社会が薄気味悪くて、たまらない。
これからも発達を続けることを考えれば、ちょうど今、不気味の谷底なのかもしれない。

自分は別れが苦手なのかもしれない。
別れの経験値が圧倒的に足りていない。
どんなに別れようと考えても、どうにかして連絡がついてしまう。
"それじゃあ、またいつか、どこかで。"
そう言われても、そしたらいつにしようか?と返せてしまう。
そんな社会が好きではないし、そんな自分が嫌いだ。

苦手なものを克服する習慣も意地も、自分には足りていない。
今まで苦手なものを克服したことがない。
自然と好きになるのを待つか、捨ててきた。
捨てるのは得意だ。
だから要らないものは、ゴミも、服も、本も、意識も、考え方も、人間関係も捨ててきた。
下手に別れるくらいなら、と。
出会いの対は別れではなかった。一方的に捨てる経験が多かった。
だから、別れが苦手で、そして嫌いだ。

自分は桜が嫌いだ。
別れを祝福してくれないから、嫌いだ。
自分は別れが嫌いだから、嫌いだ。
足元に何が埋まってようと、何食わぬ顔で花をつけ人にイベントスペースを提供し続けるから、嫌いだ。
そのくせ一人前に立派に出会いを演出するから、嫌いだ。

だから今日も外に出ない。
窓から覗けないよう、闇を広げる。
室温はいたたまれないほどでもなくなってきた。
そしてギターを手に取り、ヘッドフォンをする。
IVM7-V-VIm7の単調な流れを乱雑に掻き鳴らし、そして弦を見る。
良かった、切れていない。
単調な流れを繰り返す。エレキを買ってよかったと、心底思う。
隣室からの苦情はまだない。
単調な流れを繰り返す。ヘッドフォンから歪んだ悲鳴を聴く。
ピックは激しく弦を擦る。スクラッチノイズも歪む。

ギターのSOSを受け取るのは、知人に借りているヘッドフォンアンプと、
自分の耳だけだ。